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【中庸】の概念を考える
20260727  vol.83 10WILL代表 丹原  毎週月曜日中にブログを掲載


今回は、違った角度から物事を捉えようと思います……

人が死ぬ直前、人生が映像のように走馬灯のごとく思い出されると言いますが、最近の脳波の研究で、心肺停止前後の約30秒間に脳が記憶を呼び起こ

すような活動をしていたことが、偶然にも記録されたそうです。以前から思っていたのですが、走馬灯のごとく思い出されるというのは、映画のよう

に頭の中に映し出されるシーンのようなものかと思いますが、そのシーンは、当然本人の眼で捉えた映像のはずで、本人の主観的なシーンだと言えま

す。以前にも書きましたが、鏡に映る自分もまた、表情は自分に向けたメッセージだと言えます。自分の眼を通して見える世界は、自我に作用された

あくまでも主観的な概念で、この意識が強い人は、どうしても自己主張が強くなってしまい、日頃から周りと上手くいっていないか、もしくは自我を

押し通せる立場にあるかではないでしょうか?だから、10WILLではキャリアコンサルタントとして、人のキャリア相談に乗る上で、自己主張が強い人

は、アンコンシャスバイアス(無意識の思い込み・決めつけ)が強く、相談者に寄り添いある受容と共感で接して傾聴することは出来ないと説いてい

ます。この世界は、必ず向こう側から見るべき世界があり、これを意識することによって、かなり自我による主観的な概念や考え方が抑える(抑制す

る)ことが可能となると考えます。鏡の向こう側から見た世界です。人は自身の写真や自身の声を録音したものなど、見たり聞いたりすると違和感を

覚えます。先日も自身の写真を見て、映り込む自身のカッコが、おじいさんのようで、すごく嫌になりました。これが本当の姿なのですが、自身には

受け入れたくない感覚です。妻は笑っていましたが…

写真なら未だしも、もし自身の性格や批判的なことを耳にすると、人はあまり聞きたくない反応をすると思います。ところが、50才を過ぎるとこの耳

の痛い言葉を逆に感謝に捉えることが出来る人と拒絶する人に分かれるように感じます。特に「諫言」は、目下の人が目上の人に対して欠点や過失を

指摘することで、なかなか受け入れがたいことだと思います。それまで辛いことを多く経験してきた人は、実はこの耳の痛いことを言ってくれる人

が、どれだけ有難いかを知っています。誰しも人から嫌われたくないし、得することは何一つないから、目下の人もあまり諫言は言いたくないので、

ですから、それをも超えるその人への思いがあってこそ、耳の痛いことをあえて言ってくれていることを、わかっているからこそ、感謝が生まれるの

でしょう。そしてその苦言や諫言を受け入れることの出来る人は、まさに自身を客観視できる人であり、ただどうしても自身で意識しても自我を捨て

去ることは難しいので、他人から見てもらえる有難さを理解していることだと思います。自身の客観視とは、すなわち「己を知る」ことであり、これ

こそが、主観的な概念を抑えて、相対で物事を捉えることへとつながります。それが【中庸】であり、相手を慮ることの出来る人へと成長する道だと

思います。中庸は決して、「真ん中」やまして「妥協」ではなく、行きすぎず、足りなくもないちょうど良い状態を指す概念で、孔子や古代ギリシャ

のアリストテレスの考え(教え)でもあります。人が死ぬ前に見る走馬灯の人生の映像も、この境地に達した人と我欲の強い人が自身の眼に映し出さ

れたものには、雲泥の違いがあるということです。そこには、周りの人を慮り、調和のとれた世界観で映し出された映像に笑顔の人たちが多く映り込

んでいる。このシーンの多い方が、幸せの証だと言えます。我欲の多い人の映る映像には、物質欲であったり面従腹背のような偽物の笑顔が並んでい

るかもしれません。この両者の見極め方は、些細な言動に現れます。例えば、メールやLINEなどで、必ず、相手の健康や仕事のことなどを慮る表現を

されていて、温かくなる文章を送れる人と、最初から最後まで自身の主張をされる人などに分かれます。そんな時に、両方から学ぶことができるの

で、自身の学びと戒めにつながります。人生は修行と言うなら、【中庸】を学び、常に心を平安となるように心がけたいものです。